1、「えんぶり」の歴史
諸説がありますが、一つの説を紹介します。
建久二年(1191年)のこと。南部初代の殿様・三郎光行の奥州下向に話は始まります。
当時、近隣の豪族(地方で富や勢力をもつ一族)たちは、正月になっても光行のもとへ新年のあいさつに訪れようとはしません。そこで光行は一計を案じ、正月十五日に家来たちを豪族たちのところへ訪問させました。名目を「正月の祝賀」として、武勇にすぐれた家来をよりすぐり、武装させた精鋭たちに屋敷内で刀や槍をふるわせたのです。それから豪族らは恐れをなし、光行に服従するようになりました。
ところが、とある豪族の屋敷へ武器を手に乱入した侍たちの前に、農具である「朳(えぶり)」をもった男が面白く唄いなから踊りだしました。それに見とれた侍が名と踊りについて訊ねると、「はい藤九郎と申すものでこざいます。えぶりを持って踊りますのでえぶり摺りと申します」と答えます。
侍たちは藤九郎を伴い、光行のもとへと帰ります。光行はこの舞をいたく気に入り、これが吉例となり、小正月には藤九郎が殿様の御前に参上し、「えんぶり摺り」を披露するようになりました。
藤九郎は田畑を耕す技術にすぐれた男と伝えられており、舞は水田耕作をかたどっているのです。
参考:八戸地方えんぶり連結協議謙会 創立30周年記念誌「朳」
2、「百石えんぶり」の由来は?
百石のえんぶりは、五戸町切谷内から伝えられたものといわれ、正式名称は「五戸通り百石どうさいえんぶり」と呼ばれています。烏帽子の状態から見て、180年前から伝えられていたとされており、昭和23年に戦後初のえんぶりが行われ、昭和34年に諸事情で中断を余儀な<されましたが、昭和48年に復活。昭和49年からは八戸えんぶりにも参加しており、順調にえんぶりは行われてきました。
しかし昨今では、後継者不足が問題となっており、「子どもえんぶり教室」など、地域に根ざした保存と育成に努める活動を行っています。
えんぶりには「なかえんぶり」と「どうさいえんぶり」の二種類があり、百石は後者により摺りが行われます。「とうさい」は烏帽子を盛んに動かし、前髪と呼ばれる金銀五色の紙の房が風に揺れる姿がとても美し<、太夫の荒々しい摺りとあいまって、見ごたえある舞が披露されます。
百 石 え ん ぶ り
青森県おいらせ町
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